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2010-02-02 [京極夏彦]

 朝、道がガンガンに凍っていました。怖かったです。冷蔵庫の中にいるような寒い一日で、なんとか雪は溶けてくれましたが、やはり東京も埼玉も雪には弱い。
 
 京極夏彦さんの「数えずの井戸」を読みました。「嗤う伊右衛門」「覘き小平次」に続く京極版「怪談」の第3作目。今回の題材は「番町皿屋敷」です。ところで、「番町皿屋敷」のお話をちゃんと覚えていますか?私は「大事なお皿を割ってしまって殿様に手討ちにされ井戸に投げ込まれたお菊が、夜な夜なお皿の数を数え、やがて殿様も奥方も気が狂ってしまった」というような感じのもの凄いうろ覚えでした。この本の冒頭に様々な形で伝わる「皿屋敷」の怪談が紹介されています。怪談の舞台も江戸だけでなく全国津々浦々にあるらしい。一体日本に何人の「お菊」がいるのだろう。
 ー青山播磨は幼少の頃から何かが足りないと感じていた。特に欲深い性格でもないのだが、何かが欠けていると思ってしまう。だから数を数えても一つ足りないと感じてしまう。播磨は屋敷の庭にある古井戸が欠落の象徴のように感じていた。父を亡くし、青山家当主となった播磨に、次期若年寄就任の噂がある大久保唯輔の娘吉羅との縁談が持ち上がる。
 菊は周囲から莫迦だ、のろまだと蔑まれている。だが、本当の菊は十手、二十手先を読んでしまうほどに頭の良い娘だ。先を読んでしまうから今何をすべきなのかがわからない。だから動けない。数を数えてしまうと無限に数えてしまうから数えられない。自分や育ての母や幼馴染みの三平がいつまでも変わらずに生きていけるのならそれでいい。欲しいものなど何もないし、自分が罪を償うことで周りが変わらないで生きていけるのならばそれでいいと思っている。
 吉羅は自分の手で取れるものは手に入れるべきだと思っている。取れる場所にあるのに手を出さないのは愚か者である。青山家に伝わるという姫谷焼きの10枚皿。その皿を献上することで父が出世をするのなら、自分が青山家に嫁ぎ、その皿を手に入れようと心に決める。だが、播磨の側用人である柴田十太夫が必死に探しているにも関わらず、皿は一向に見つからなかった。ー
 何かが欠けていると思い込んでいる播磨、この世に欠けているものなどないと思っている菊、自分の手にはまだ掴めるものがたくさんある筈だと信じている吉羅、この世のすべてのものを壊したいという衝動にかられている播磨の朋友主膳、誰かに誉められたいと願う十太夫。この話に出てくる人物は皆、どこか一点が歪んでいます。その歪み故にわかりあえない。菊は「欠けている」と感じている播磨がわからないし、吉羅は「欲しいものなど何も無い」という菊が理解できない。主膳は何事にも興味を示さない播磨に苛つき、十太夫は必死に頑張っているのに己を誉めてくれない播磨が不満です。縁談の条件のように出された家宝の皿も、播磨は最初から「ない」と思っているし、十太夫は「これだけ探しているのに播磨が何も言ってくれない」と不満だし、吉羅は「ないのではなく、隠している」と信じ込んでいる。このすれ違いがどんどん大きくなって、やがて悲劇が起こります。惨事を目の当たりにした三平の「たかが皿で人が死ぬのか」というやるせなさに同意。ほんと、たかが「皿」で何もここまでしなくても。ただ、そのお皿は本当に見事なものなのですけど、やはりお皿でこれだけ人が死ぬというのは、それだけ彼等が歪んでいたということでしょうか。地方の新聞で連載していた小説なので、各章が短くて本が分厚い割には読みやすいです。が、読後感はあまりすっきりとはいきません。登場人物皆が悪人というわけではないので、「どうしてこんなことに……」で終わってしまいます。主膳も吉羅も悪人ではないからなあ。菊の善人ぷりも人によってはもの凄い悪意に見えるだろうし、播磨の無関心さも苛つくだろうし。この本は装丁がとても綺麗で、カバーを外すとまた違う世界があります。月ひとつでここまで変わるのか……。

数えずの井戸

数えずの井戸

  • 作者: 京極 夏彦
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2010/01/25
  • メディア: 単行本







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